●バロン吉元の「柔侠伝」を推す 【関西共同行動】 古橋雅夫
70年に双葉社発行の「漫画アクション」にバロン吉元作の「柔侠伝」という作品の連載が始まった。71年に連載をまとめたB5版の別冊が発売され、わたしは(むろん!)今も大事に保管している。知っている人は多いと思うが、左右を問わず当時の学生に大人気の漫画であった。
この漫画は、のちに「昭和柔侠伝」「現代柔侠伝」「男柔侠伝」「日本柔侠伝」と4世代にわたる親子の歴史物語として続くことになるが、日露戦争勝利の1905年(明治38年)から物語りが始まり、日比谷焼き討ち事件―太平洋戦争―敗戦―下山事件―三池闘争―安保闘争へと史実や実在の人物を織り交ぜながら現在に続くまでの壮大な作品群で、中でもその始まりとなる「柔侠伝」は、スタジオジプリの鈴木敏夫さんが「自分のベッドの傍に置いてある本の中で、漫画はバロンさんの柔侠伝だけ」と評するのも当然の傑作である。
主人公柳勘九郎の父秋水は古武道たる柔術の師として息子に「講道館柔道を倒せ!」と遺言して果てる。この父親の名前からして意味深なわけですが、金もなく頼る人もなく、ただその遺志を果たすべく東京に出て講道館に入門する(全シリーズにわたって、物語の主人公は柔道家であっても、一貫しているのは、事あれば禁じ手なしの自在に突き・蹴り・関節技・骨折技などを駆使するところがミソ)。そして下町の底辺に暮らす様々な人々とのエピソードが全30話でつづられる。中でも第22話「凱旋」というエピソードが私は好きだ。

勘九郎は、ある日包帯をし松葉杖をつき、血を流しながらも歩く傷病兵に出会う。聞くと東京駅の開業式があり、そこに自身の尊敬する軍神の顔を見るべく、電車で行くのは恐れ多いので歩いて向かうところだという。しかし歩けない傷病兵を見捨てるわけにもいかず、勘九郎はしばし行動を共にする。その過程で、女手一つで子育てする家、捨て子やその子を捨てた同僚、PTSDを発症した兵隊や酒に酔っ払った将校など様々な出来事に出会いながら、もうすぐ東京駅に着くという段になった。そこに集まった群衆から日の丸を渡されるが、しかし傷病兵は「いりませんよ」「私は帰るところですから」ときびすを返すに至る―というエピソードだ。当初の何としてでも軍神に会いたいという気持ちが、戦争というものが何であったかを目のあたりにして、ついに百八十度心変わりするというその語り口がうまい。
この「柔侠伝」の最後、勘九郎は宮崎滔天に誘われて大陸に渡り、馬賊の頭目となって日本軍に抵抗する。そして息子を義和団事件の生き残りの拳士に託して生涯を終える(物語は順次息子に引き継がれ現代に至り、自給自足のコミューンを九州に設け梁山泊道場として仲間を糾合し、政界に巣くう右翼武装団体と壮絶な死闘を開始する)。
バロン吉元は、中国の故事だが加納治五郎の言葉を紹介している。「柔よく剛を制し、弱よく強を制す。柔は徳なり、剛は賊なり。強者は人の忌むところとなり、弱者は人の助くるところとなる」―現実世界において敵を見定めろという物語のメッセージに感動して、大学に入るや少林寺拳法部に入部。その後20年従事して3段を取得した。
少林寺拳法の開祖宋道臣は、1980年に亡くなるが、入部当時はまだ健在であった。開祖の言う事は右翼的ではあったが、板の間があれば道場となり、そこには日の丸はなかった。日中国交回復前から中国要人と交流があり、来日するたびに警護役をし、中国侵略の歴史にも言及する(巨大な)武道団体でした。敗戦直後は武道が禁止された経緯があり、「宗教団体」として登録、出発した。そのためか練習を前に座禅し「人生まれて世にある時、人道を尽すを貴ぶ、まさに人道に於て、はずる処なくんば、天地の間に立つべし、若し人あり、仁、義、忠、孝、礼の事を尽さざれば、身世に在りと雖も、心は既に死せるなり、生を偸むものと云うべし、凡そ人心は、即ち神なり仏なり、神仏即ち霊なり、心にはずる処なくば、神仏にもはずる処なし」などとの文言を唱和させられた。
武術というものは、そもそもはインドが発祥の地であり、それが仏教とともに中国にわたり、嵩山少林寺に達磨大師が禅宗を広める際に、心身一体論として拳法が生まれた。それがいわゆる僧兵と化して時の政治権力と闘い、弾圧されて技術が全土に拡散。手が主流の北拳、足が主流の南拳と各派乱立して、その一部が沖縄に伝わり「唐手」=「空手」と形を変えていく。1900年の義和団の乱はその流れを汲んでおり、開祖は、縁あって戦中の大陸で、その生き残りに師事することになったのが事の始まりである。
拳士たるものは年1回は必ず「本山に帰山せねばならぬ」として四国・香川県多度津にある本部道場に合宿した。広い講堂に全国から学生が結集し、交流を深める。そこが開祖の独壇場である。開祖曰く、「誰よりもつ強い人間、力のある人間など、孤独なだけで何もなしえない。石を手で割ってどうするんだ?割るならハンマーを使えばいいんだ。」「私が皆さんに期待するのはかしこい狼の群れだ。一人一人の力は弱くても、目的を一つにした集団の力があれば、なんでもできる。」そしていう。「私が誰か要人を殺すと言ったらどうするか。どこかのヤクザのように人にやらして自分はやらんという事はしない。君たちは私についてくるか。ついてくるもんは手を上げてみぃ」などと挑発した(私も手を上げた一人)。集団心理の怖いところだが、あの頃の熱気を忘れることができない。
だからという事ではないが、大学に入ってもしばらくは高校時代の詰襟の学生服を好んで着ていた(高校では、制服廃止を決めた世代なのだが)。安保闘争時代の闘う学生が詰襟だった写真を見て感動したからであった。ところがある日、その制服が見つからない。母親に聞くと「いつまで学生服なんか着てんのか」と捨てられていた。胸囲が1メートルを超え、太ももが太くてズボンがはけず、疲れも知らず1日サンドバッグを叩いていた頃を思えば、体重は10キロも増え、階段の上り下りもしんどい今、ただの頭でっかちの、口先だけの人間に堕していないか。「今の若者は・・・」という言い方で、かつての自分がどうであったかを忘れているのではないか。天網恢恢疎にして漏らさず、自己点検を怠ることなかれ。
結手

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